阿部幸製菓140年のあゆみ

◆米屋から米菓製造へ

阿部幸製菓の歴史は「阿部五郎松」という人物からはじまりました。
当時 (約140年前)はまだ米菓製造を行っておらず米屋を営んでおり、また262間の馬小屋を建てて馬燈篭を吊るしたり馬市絵図を印刷して配布したりと、当時でもかなり大きな馬市を開催していました。
農家の役畜が次第に馬から牛に変わり、五郎松の長男・幸吉は米屋をやめてせんべいの製造を始めました。五郎松の次男・清吉が家業を継いで米屋を続けていましたが、兄を助けるためせんべいの製造業に転職しました。米菓製造のスタートとなります。
毎日炭を起こして手焼きせんべいを作り、川口・田麦山・小国・真人(何れも現小千谷市近辺)方面へ行商に行く毎日でした。一日わずか30kgの生産量だったと言います。


その後、戦争により米菓製造が困難となり休業となっていましたが、戦後、幸吉の次男であり先代社長の阿部俊司が新潟県小千谷に戻り、すべてを手作業で行いながら米菓製造を再開しました。 昭和22・3年の時です。 そして最初のヒット商品「かきもち」が生まれたのです。
「かきもち」以外にも、京角、大のり、柿の種なども製造しており、なかでも「小菊」は昭和32年に全国菓子大博覧会で金賞牌を受賞。
1964年(昭和39年)には東京オリンピックの「五輪」にかけて「五種類の味が楽しめる“五輪あられ”が発売され、大ヒット。
1964年(昭和39年)に会社組織に改め、1965年(昭和40年)には本社社屋と工場を新築しました。



1966年(昭和41年)、アメリカではジャガイモを油で揚げたスナックがあると耳にした先代社長は、当時入院中であったにもかかわらずすぐに鍋と油とジャガイモを病室に用意させ、試作を始めました。
こうして我が社のポテトチップスが開発され、製造が始まりました。当時国内では我が社を含めて4社ほどしか生産していませんでした。
本業のあられ一本で行くことに決める昭和46年まで、あられと並行してポテトチップスの生産が続けられました。


1967年(昭和42年)、食品研究所で「ワキシースターチ(とうもろこしのでん粉)」を使用したあられの講習会が行われ、すぐに我が社でも同様のあられの試作を開始。 試作が実を結び、これまでの常識を覆す5割以上使用した、新しい「あられ」を完成させることができましたが、「米だけで作ったもの以外は米菓ではない」など社内からの反対意見もありました。 しかし、「美味しいものをより安く」お客様に提供することが大事としていた先代社長は方針を変えず、値段が手ごろでソフトな食感の新しい「あられ」は、多くのお客様から好評をいただき、喜ばれました。 


その後、工場増築や米国・欧州への輸出を行いながら、熱風による自動焼き機、自動乾燥機の開発に成功し、品質の向上と省エネ・合理化を進めました。 柿の種の日本一を目指して素焼きあられから始まった当社も、会社組織になって50年。今では海外にも販路を広げ、新規事業への参入、新商品開発も頑張っています。 柿の種だけではなく、様々な分野での活躍を目指して日々邁進しています。

 

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